砂漠と一本道

オーストラリアに移住してちょうど14年が経ちました。

14年前の6月3日、僕たち家族は大きな不安と少しばかりの期待を胸に成田空港を出発し、翌日の早朝にケアンズ国際空港に降り立ちました。

この14年という年月を思い返すと、いろんな出来事や思いが交錯して非常に感慨深いものがありますが、せっかくなので今回はこの14年間を自分なりに振り返ってみたいと思います。

オーストラリアに移住して14年が経って思うこと

オーストラリアに住んで丸14年が経ちましたが、正直あっという間だったという感覚はありません。

日本に住んでいた時、特に社会人になってからの日々というのは毎日が忙しく、あっという間に1年が過ぎ去っていったものですが、オーストラリアでの日々は割とゆったりと感じています。

オーストラリアの温暖な気候や、せかせかしていないレイドバックした空気感がそう感じさせるのか。

日本での生活と比べると、そのスピードは半分くらいに感じます。

移住当時9歳だった娘は今年23歳になり、立派な大人になりました。彼女の成長を横でずっと見てきた僕としては、本当に感慨深いものがあります。

小学校3年の時、完全な親の都合で突然日本の学校をやめさせられ、友達と離れ離れになり、いきなりオーストラリアに連れてこられ、訳のわからない言葉(英語)を話す環境に置かれ、右も左も分からぬまま過ごしていた姿を思い返すと、よくここまでやってこれたなぁという思いが募ってきます。

子供は新しい環境に順応しやすいと言いますが、娘は一人っ子のせいか、昔から引っ込み思案で人見知りで、新しい環境に慣れるのが人よりも遅かったんです。

そんな彼女も今では立派にオーストラリアで働いています。

でも時折ふと思うんですよ。

もしかしたら、あのまま日本にいた方が彼女にとっては良かったのかな?、とか。

もしパラレルワールドというものが存在するならば、覗いてみたい気もしますが、本人には、そんな野暮な質問はするつもりも全くありません。

彼女の「今」が充実しているなら、それでもう十分ですから。

それは僕自身もそうです。

僕は10代の大半を昭和という時代で過ごし、いわゆる「いい大学に入って、いい会社に入ることが幸せ」という考えがまだ主流だった時代を生きてきました。

1年間の浪人時代を経て、第一志望の早稲田大学に入学し、その後一部上場企業に入社して結婚、子供にも恵まれました。はたから見れば、順風満帆な人生だったかもしれませんが、今思えば、何かが違うなというモヤモヤ感が常に頭の片隅にあったんですね。

そして29歳の時に初めて訪れたオーストラリア。

わずか10日程度の滞在でしたが、この時オーストラリアで過ごした時間が僕の人生を大きく変えるキッカケになりました。

まさに僕にとっての、Life-changing event。

僕自身、その前年に母を病気で亡くしており、「人生とは?」、「生きていくとは?」、「幸せとは?」といった普遍的なテーマを日々模索していた最中でした。

はたして僕の人生、このままでいいのか?

来る日も来る日も悩み続ける中で、偶然訪れたオーストラリア。

この時、何かその答えの破片が見つかったような気がしました。

それがキッカケで、妻と幼い子どもがいながら順風満帆な日本での生活にピリオドを打ち、永住権が取れる確証もなく、半ば勢いだけで「移住してみた」オーストラリア。

気がつけば14年が経っていました。

2006年に移住開始し、幸運にも2年後の2008年に永住権を取得できたのは、自らの努力というよりはむしろ、様々な幸運な出来事の積み重ね、そして素晴らしい人々との出会いがなければ決して掴めなかったものです。

永住ビザの取得が非常に困難と言われるオーストラリア。それは当時も同じでした。

パン職人という職種で申請するのが比較的、永住ビザの取得の可能性が高いと、ある移住エージェントから教えてもらったことがキッカケで、それまで全く縁のなかったパン職人という道を選んだわけですが、これも今から考えれば絶妙な選択だったと思います。

2006年から2010年まではケアンズに住んでいました。

TAFEといわれる職業訓練学校にて一年間のBakingコースを受講中に、運良く地元のパン屋でバイトをさせてもらえることになりました。

TAFEにて

Bakingコースを受けているとはいえ、実務経験がゼロなので、完全に一からのスタートです。

最初の半年間、僕がやっていたことは雑用全般です。具体的な仕事内容はと言えば洗い物と作業場の掃除がほとんどで、その半年間はパン生地に触ることも許されませんでした。

そういえば、ちょっと意地悪な先輩Bakerが一人いて、しょっちゅう怒鳴られてましたね。

幸いなことに、その頃はたいして英語力もなかったので、彼の言っていることがよく分かってませんでした。(笑)

一番下っ端の見習いの立場で、自分の意見を言えるほどの英語力もなく、怒鳴られ、こき使わされながらも歯を食いしばって一年間働いたあと、突然店のオーナーが変わったんです。

思えばこれが僕にとって、ビザの神様からのプレゼントだったのかもしれません。

パン屋と自分その頃、永住権取得に向けて動いていた僕は、ケアンズにあるいくつかの移民弁護士にビザの相談に行きました。最初の3件の事務所で言われたことは、かいつまんで言うと「将来的には可能性はあるけれど今は無理です」という悲惨なものでした。2年~3年、5年位のスパンで考えてくださいと。

やはりダメなのか・・・。
先が見えないようなら日本に帰るしかないのかもしれないな・・・。

そんな悲観的な思いがふと頭をよぎりました。

しかし、ビザの神様は僕を見放さなかったのです。

藁をもすがる思いで最後に訪れた弁護士事務所。そこにいた白髪でメガネをかけた年配の弁護士さんは、穏やかな笑顔を浮かべながら僕にこう言いました。

「条件が整えばすぐに申請できるよ。」

店のオーナーにスポンサーになってもらうことで、RSMSという地方スポンサービザに申請ができるということでした。

一点の光が差し込んできた瞬間でした。

太陽の光

すぐに次の日、恐る恐るも新しいオーナーに相談したら、快くOKしてくれました。ホッとした瞬間です。

日本のパン職人事情はどうか知りませんが、オーストラリアのパン職人は、いわゆるジョブホッピングと呼ばれるような頻繁に店を変えることが割と普通で、1、2年で辞めて他のBakeryに行く人も少なくありません。

RSMSビザは永住権がおりたあと、最低2年間はその店で仕事をしなければいけません。

店のオーナーとしては、なるべく辞めない人材を確保したかったのでしょう。

僕だって、この先の仕事が安泰となれば願ったり叶ったりです。

そこからは手続きも順調に進み、2008年の4月に無事永住権がGrantされました。オーストラリアに来てから丸2年もかからずに永住権を取得できたというのは本当にラッキーなことでした。

この時ばかりは、飛び上がるほど嬉しかったことを昨日の出来事のように鮮明に覚えています。

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全ては必然だった・・・

バーレーヘッズの海

そのケアンズの店でトータル4年半働いた後、僕ら家族はゴールドコーストへ引っ越しました。

そして気がつけば今でもパン職人として働いています。いつまでこの仕事を続けるかは分かりませんが、オーストラリアと僕を結びつけてくれた大切な仕事であることは間違いありません。

今、こうして14年間経ってみて分かったこと、それは、今まで起きた事は偶然ではなく全て必然であったということです。

強い思いと信念を持って行動すれば、出会うべきタイミングで出会うべき人に出会い、チャンスをも引き寄せられること。

ちょっとスピリチュアルな話に聞こえるかもしれませんが、本当にそう思うんですよ。

正直もう無理だと思ったことは何度もありましたが、ここまで来れたのは結局のところ、「オーストラリアで家族と一緒に住みたいんだ!」という強い思いを捨てずに決死の覚悟で行動できたからだと思っています。

人生というのは、時にどん底に突き落とされそうなことが身に降りかかってきますが、後から振り返ってみると、それはその時の自分にとって必然だったと思うことがたくさんあります。

29歳の時にはじめてオーストラリアに来たこと、パン職人という仕事を選んだこと、ケアンズに住んだこと、TAFEに通ったこと、弁護士さんや意地悪な先輩Bakerをも含めて永住権を取るまでに出会った全ての人々、起こった出来事、それらは全て永住権を取る上で僕にとって必然なことでした。

オーストラリアに移住し14年という年月が過ぎました。

いつまで、パン職人の仕事を続けるのか?、そしていつまでこの国に住むのか?

それは・・・

日々の鍛錬の中で、いくつもの偶然と思えるものがやがて必然となり、その答えを運んでくれるものだと思っています。

僕ができることは、ただただ与えられた日々を精一杯生き抜くこと。

“Survive”

僕が好きな英単語の一つです。

Surviveには「危険や困難があっても生き抜く」、という意味があります。

人生は決して楽しいことばかりではなく、不意に、想像もしなかったような困難が訪れます。

ただ、その困難を乗り越えたとき、それは必然だったと思えるような人生を僕は送りたい。

そのためには、日々を真剣に生きること。

それしかない!

今も、そう自分に言い聞かせています。

祖国日本を遠く離れ、南半球のオーストラリアに住んでみて、かれこれ14年。

まずは、特別大きな病気や怪我もなく、家族全員が平穏無事に過ごせていることにとにかく感謝です。

そして、こんな僕を、時に温かく、時に厳しく迎えてくれたオーストラリアという国、この国で出会った全ての人々、起こった出来事全てに感謝をしたい。

最後に・・・、

人生を大きく変えてしまうような突拍子もない決断に付き合ってくれた妻と娘、そして日本から多大なるサポートしてくれた家族へ。

本当に本当にありがとう!!!

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